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対立の哲学

対立の哲学、日本語ブログ版。

The Philosophy of Conflicts

 

対立の哲学

予備的な省察

黒崎玄太郎(2009年1月)

■序文

「和」を強要するよりも、

「対立」を許容する方が、

はるかに理性的であり、

はるかに健全である。

合意などあり得ない。

合意はゴールではない。

誤った目標が最悪の対立を生んでしまう。

ならば、より合理的な対立を模索するべきだ。

より良い対立を。

対立の哲学こそ、最も平和的なのだ。

より良い形での持続的な対立を実現すること。

平和は消極的な形でしか達成できない。

それは悲観でもなければ、楽観でもない

1.怒り

楽しみにしていた遠足が雨で中止になったからといって天候に怒る人はいない。いるかもしれないが、それは圧倒的に少数だ。一体何に対して怒ればいいのか。自然か、地球か、神か、物理法則、あるいは日本海に張り出した高気圧に対して怒りをぶつけるのか。そんな人は見たことがない。こういう場合 の通常の感情は、悲しいとか残念に思う、落胆する、失望するなどだ。

道で野良犬に噛まれた場合、その犬に対して怒るだろうか。特別な状況を除いては怒らないのが普通だろう。怒るとすれば、そのような野良犬を放置した行政に対してだろうか。

一方、友人が待ち合わせの時間に遅れたり、約束を破ったような場合に怒る人というのは珍しくない。また、挨拶がなかった、中元をよこさな い、俺に相談がない、あの態度は何だ、といって本気で怒る人達もいる。なぜ怒るのか。それは、自らが常識であり当然であると考える行為を、他者が示さなかったからだ。自らが当然と考える行為。多くの場合、それは合理性の無い個人的なビリーフだ。私に言わせれば、そのような怒りは無知に基づくのであり、つ まらないことで怒ってばかりいる人は軽蔑されて当然なのである。そのような怒りは、自らの幼児性と想像力の欠如を表明しているだけのことだ。

しかし、怒って当然という場合もあるでしょう、と反論されるかもしれない。マナーの悪い奴が許せないという人もいる。むしろ誰も怒らないこ とが問題ではないですか、と。そうだろうか。怒ると叱るはまるで違う。怒るは感情に属するが、叱るは理性に属する。通常の大人ならば、そのような場合に生 まれる感情は怒りではなく、落胆か軽蔑か嫌悪、あるいは悲しみか憐れみか不快感ではなかろうか。より賢明な人であるならば、その程度の状況ではまるで感情 が動かないだろう。

人間の社会には文化規範がある。それを遵守するべきなのは言うまでもない。しかし、現在は文化も多様化している。一人の人が複数の文化に日 常的に接している。そこでは、当然のこととして、規範も使い分けられる。昔ながらの一つの文化に固執し、それを美学だと思っている人もいるが、お好きにど うぞとしか言いようがない。要は文化的な差異の認識が出来ていないだけで、スロライクゾーンが狭いだけの話だ。多文化の、めまぐるしく変化する時代であ る。そのような怒りはただ、差異を認識できないか、許容できないかのいずれかだ。(まあ、嫌悪感くらいなら妥当だろうが)この程度の怒りは論ずる対象にす らならない。とは言え、このレベルの怒りで殺人事件まで起こる世の中だから、注意は必要だろう。

怒りというからには、のどかな話ばかりするわけには行かない。親族を誰かに殺された場合、その犯人に向けられる怒りは当然のこととされている。戦争の犠牲になった場合の怒りというものもある。その怒りは憎悪と結びつき、復讐にまで発展するかもしれない。このような重大な犯罪に対する怒りとは正当なものなのだろうか。さらに、復讐まで正当化されるのだろうか。

この怒りの前提に、相手が同じ人間であるという認識があることは明白だ。いうこと、同じ人間だから許せないのだ。この認識がなければ、それは怒りではなく敵意である。

怒りという感情を否定する理性優先の論理もある。しかし、私にはそう簡単に結論を出して良い問題だとは思えない。感情より理性を優先させな かればいけないのはなぜか。そして、それは常にそうあるべきだという例外のない原則なのか。ならば、人間にとって感情とは何なのか。感情があるからこそ 人間ではないのか。

最近では迅速な意思決定が賞賛される風潮にあるが、知の伝統として、重要な決定は遅ければ遅いほどよいという見解もある。ここでは結論を保留して次に進もう。

2.内と外

組織とか共同体と呼ばれるものは、必ずそこに、内と外を分ける壁を作る。作ることを強く意識する場合もあるし、あまり意識することなく自然に壁が出来る場合もある。家族、学校、会社、趣味のサークル、市町村、国、地域社会、日本社会、国際社会。性格や規模がちがっても、内と外という関係に変わりはない。

共同体は、明示されているか否かは別にして、理念や目的を持ち、特定の価値観を共有する。共同体の内部では秩序を維持するために同質化の圧 力が働く。効率を上げるためにメンバーの役割が示される。適応できない者は、最終的に排除される。それが家族であっても同じである。勘当とか家出とか離婚 だ。

内部の結束を高めるために、もっとも良く用いられる手法が、外部に敵や脅威を想定することだ。これによって、共同体は、より<閉じた>ものとなる。逆に、外部との友好な関係を拡大しようという戦略は<開いた>ものと言えるだろう。

日本は昔から「日本論」や「日本人論」が好きだが、そのような傾向自体が普遍的であるということにすら気がつかない人が多い。そのような 「独自性」にアイデンティティを求めるというのは、普遍的な傾向なのだ。ただ、そのような議論が行き過ぎると、<閉じた>傾向も持つ場合が多いので注意が 必要だ。

ある高名な学者は、自らのヨーロッパでの留学経験をもとに「日本に社会は無い、日本にあるのは社会ではなく世間だけだ。」と述べ、このコン セプトで何冊もの本を書いている。また、ある有名な評論家は「サラリーマンは個人ではない」と言い放った。こういった言説は、そうなんだよなあ、という感 想を持ちやすく、ややもすると納得してしまいそうになるという点で、きわめてたちが悪い。このような言説は、近代が築き上げた良質の部分を侵食し、近代否 定の論理へと容易に転化する。すなわち、民主主義そのものの否定である。発言する側に、そのような想像力が欠如しているのか、あるいは、それこそが意図なのか、については言及しないでおこう。ただ、私たち は言説を評価するに際して、その内容に対して冷静であるだけでなく、その言説によって生じる影響についても、想像力を働かせる必要があるのだろう。

なにも、近代をそして民主主義を絶対視するのでも至高のものと崇めるのでもない。批判される部分も改善すべき部分も大いにあることは認識している。ただ、このような形で近代を否定するのは乱雑に過ぎるのであり、近代の良質の部分は歴史的遺産として大切に継承しなければなるまい。

私たちは今、多くの共同体に属している。その中での貢献が認められれば、賞賛され、より高い地位、あるいはより高い報酬が得られる。あるい は、その貢献は正義と位置づけられるかもしれない。また、その組織が社会的に高い評価を得ていれば、地位や名誉は共同体の内部に留まらないだろう。

ただ、どのような共同体の中にあっても、その内と外に対する十分な観察を忘れてはならない。そしてまた、いかに崇高な理念に基づくものであれ、行き過ぎると反対物に転化してしまうということを知らなければいけない。

国際化された時代を生きる中で、<開いた>戦略が、<閉じた>戦略より優れていることは言うまでもあるまい。そして組織も、また個人も<開 いた>状態を志向したいものだ。内と外の壁を認識しながらも、外に対する眼差しを忘れないこと。それは、外のためだけでなく、内のためでもあるのだ。「情けは人のためならず」の本義でもある。

3.格差

格差の拡大が社会問題として取り上げることが多くなった。各種の経済統計もそれを裏付けており、それを政府の責任として非難する人たちもいる。政府の政策に不満を持つ人たちがいる。それらの人たちの非難の鉾先は、政府や閣僚にとどまらない。市場原理主義や、資本主義一般にまで向けられたりする。

下流と自称する人たちに、「今の社会は、ほぼ機会平等です」とか、「パレート最適と言えます」などと説明しても納得は得られない。それどこ ろか、彼らの怒りを増すだけに終わる。そもそも、平等という概念は、自然権としての権利の平等のことだ。結果としての格差を認めない、あるいは私有財産制 そのものを否定するという人たちは圧倒的に少数派であり、彼らは夢想家とよばれ、一般的には相手にされない。

格差は何も経済的 なものだけではない。各種の能力、技術、知識、人脈、人望、人気、関心を持つ領域とその深さなどなど、格差は歴然として存在する。人は生まれて以降、差異 ないし個性を拡大する方向に成長して行く。私有財産の否定というのは、格差の一部を消そうとすることだ。それが、どれだけ多くの自由を失い、より悪い性質 の格差を増すだけのものであることを知らないというのは悲しい。人間は誰一人として同じではないという事実を前提にするのか、人間は皆おなじであるべきだ という理念を前提にするのか。スタート地点が異なれば、目指すべき方向も違う。このような場合、どこから対話をはじめればいいのだろう。

日本の現在(2006年)の問題は、経済学的にどのような格差が妥当なのかという議論ではない。現実の問題は「格差」という言葉の背後にある「貧困」である。格差の拡大が問題なのではなく、貧困貧困一歩手前の層の増大が問題なのだ。いかにして貧困を減らすかという問題が、格差はどの程度が望ましいのか、という問題にすり替えられている。議論されなければならないのは、生存権レベルの問題だというのに。

原因は、正規雇用の減少と年功序列賃金制度の半崩壊である。雇用という労働形態そのものが問われる時代になったということだ。雇用は福祉の一部である。国が雇用の促進を画策し、完全雇用を目指すのは、それが福祉だからだ。経済的な合理性から言えば雇用されないであろう人にも、何とか働いてもらうことで生活してもらうというのが基本方針なのだ。しかし、経済環境の変化、産業構造の変化は、従来のこの考え方に大きな転換を迫っている。

「世界に目を向けると、1日3ドル以下で生活している人が何億人といます。世界の貧困に目を向けましょう。」と叫ぶ慈善家は多い。ただ、そのような世界と現在の日本を単純に比較するわけにはいかない。世界には、お金がなくても普通に生活し、生きて行ける社会もある。しかし、日本の場合はちがう。経済活動は全面的に貨幣に依存している。お金が無くなれば飢えて死ぬ。そういう社会だ。

文明が進歩すれば、必要とされる労働が減るのは自然なことだ。一昔前は労働時間の削減や、労働からの解放こそがスローガンではなかったか。 それが実現可能なものとして見えてきた時に、それを問題視するなど本末転倒だ。いまさら、労働というものを美化する必要もあるまい。まして、雇用という 「奴隷的労働形態」は、歴史的に見ればここ数百年の歴史しか持たない特殊な制度で ある。いずれ消滅すると考えても間違いではないだろう。そのような時代の変化を背景に現れたのが、「ベーシック・インカム論」ではなかろうか。つまり、すべての人に基本的な生活に必要なお金を配ることが政府の役割であるとする考え方である。政府が雇用を供給できないのであれば、生存権を平等に保証する義務 があると考えられるからだ。

格差の拡大を問題視する人たちの多くは、根本的な間違えを犯している。政府に平等を実現する能力がなければならないとする事が、まず間違え だ。そんな神の如き能力のある政府など、存在するはずがない。結果としての格差の縮小という目標を掲げるべきだというのも、正義ではなく、個人的な信念に 過ぎない。ましてや、資本主義が悪いなどという主張は論理的な大飛躍であり、論外だろう。真に主張すべきは、貧困の解消という点にしかないのではなかろうか。

厄介なのは、この問題を自らの政治的影響力のために利用しようとする人たちである。彼らは議論をすり替える。そのような非論理的な説が、今のマスメディアでは無批判に流通する。ここでも、「対立する精神」と「対立する技術」が求められている。安易な対立の回避が最悪の対立を生む。

4.道徳

人間は、種の本能に基づく世界観と、言語で構成される文化的世界観という二つの世界を抱えている。丸山圭三郎はこれを「身分け構造」「言分け構造」と呼んだ。この二つの世界は決して統合されることがない。いつも引き裂かれ、傷つき、痛み、悩みながら生きること。それが、言語を持ってしまった 「人間」の宿命なのだ。

動物の世界には、正義も悪もない。動物はただ本能に基づいて行動しているだけだ。欲求に従うこと。それがどれだけ残酷に見えたとしても、それは自然であるに過ぎない。意思が介在することはない。

本能に基づく生理的な欲求と、文化的な次元の欲望とを分けて考えるという人もいる。欲求には正当性があるが、欲望の多くは過剰であると主張 する人達だ。しかし、これは滑稽な話だ。人間には純粋な欲求などもはや無い。すべての欲求は欲望と混ざりあっているのであり、それを区分することなど不可 能な事だ。人間とは本能の壊れた動物、あるいは本能を壊した動物だ。「人間に本能はない。あるのは本能残基だけだ」とも言われる。その通りだろう。睡眠だけは純粋に生理的だなどと思ってはいけない。夢ほど文化が輻輳する空間はない。人間であるということは、文化内存在であるということだ。欲望と欲求の関係 で識別できるのは、生理的な要素を含むか否かという点においてだけなのだが、これすらもかなり難しい問題を孕んでいると言えよう。

貪欲は、昔は大罪とされていた。しかし今では成功の条件であり美徳とすら言われる。巷には、文化も欲望も氾濫している。それに魅力を感じる か否か、あるいは嫌悪感や危機感を感じるか否かは人それぞれだ。言語が過剰であるとするならば、文化も過剰であり、欲望も過剰に違いない。しかし、過剰だ からといって制限できるような性質ものではあるまい。もはや、過剰を受け入れるしかない。節制や質素も立派な欲望だ。禁欲すらも欲望の一種だ。逃げ道な ど、どこにも無い。

人が社会の中で地位を築き、富を貯え、名声を得ようと努力することは正当なことだ。このような欲望は正常なものとして評価されるし、むしろ 必要な欲望と言うべきかもしれない。組織に対して貢献することで評価され、それにふさわしい地位と報酬が与えられる。ここで要求されているのは、どう機能 するかという「道具的な価値」である。人は自らの道具としての価値を高めるために努力し、またその価値を誇りに思う。それはそれで素晴らしい。しかし、そ の価値にだけ目を奪われると、道具としては優秀だが人間味に欠けたつまらない人になってしまう。かっこ良くて金も地位も申し分ないけれども、話ていてまっ たくつまらない人というのもいる。さらに、本人は素晴らしい話をしていると思い込んでいるから大変だ。もっとも「金持ちの戯言は格言になる」という諺もあ るので、こういう話をありがたがる人も少なくないのかもしれない。それはそれで、また頭の痛い話である。

逆に、人間的には実に面白いのだが、組織には馴染まないし、道具としてはさっぱり役に立たないという人もいる。いわゆる社会不適応だ。もち ろん、これは極端な例なのだが、道具としての階段を上がって行くと、世界はどんどんと道具的なものに見えてくる。人間を地位や所得で評価する傾向が強くな る。さらには、人間的なものへの関心が薄れて行く。これが官僚社会の病理と言われるものだ。「とんでもない。今の世の中で最も換金性の高い能力は人格なん ですよ」と反論する人も見かける。この説は本当なのだろうか?

人間は文化内存在であるとともに社会内存在である。その中で人は当然のように役割を担う。それが強い強制力を持つ場合もあるし、自らの意思 にそぐわない場合もある。自由が尊重される時代の中でも、人は多くの部分で縛られている。それは環境と言っても良い。一般的に言えば、環境受容能力が高け れば高いほど、生きるのが上手い。逆に、自由意志を尊重する傾向が強過ぎたり、理想主義的 な傾向が強いと不満も多くなる。しかし、文化も、また社会も人間が作り出すものであり、より良い方向へ変更可能なものだ。であるならば、個人的には環境に 適応する方が幸福かもしれないが、全体の利益を考えるならば、より理性的に自由意志を働かせることの方が重要であるとも言える。意思に基づいて環境を変え る力を人間は持っている。逆に、悪い方向へと変える力も。

社会に対して何もしない、というのも一つの選択であり行為である。何もしないことに対して問われる責任もある。そんな責任などない、という 主張もあるだろう。責任を問われるほどの力は持っていない、と言えるのかもしれない。しかし、道徳とは単に規範を遵守することではない。権威や体制に服従 することでもない。道徳とはまさに市民としての自覚なのであり、これこそが道徳的であるかどうかの境界線である。

残念なことだが、道徳的な人は少数派なのかもしれない。

5.時代

私たちの生きている現代とはどういう時代なのか。疲弊した近代。テロの世紀。帝国の時代。知識情報社会。管理社会。インターネットの時代な どなど。見る方向はいくらでもあるし、それについての認識や評価も多様である。物理的には同じ時代を生きていても、人によってその認識は大きく異なる。こ れは、現代ではなく歴史となった過去についてでも同じことだ。いまや、真理などという形而上学に合理性はない。これがポストモダンの切り拓いた地平である。すべては相対化された。文化相対主義。それは植民地解放の論理的な支えでもあったのだが、今やこの相対主義は、当初の思想が基礎としていた自由と民主主義という概念すらも特権的なものではないのだという理論に転用されている。それは正しい。特権性などどこにもないのだ。

ポストモダンは、モダンの基盤である「絶対性」を否定した。近代の中にある「抑圧」や「管理」を攻撃した。それは妥当であり意義のあることだ。しかし、近代が多くの問題を抱えているという事実と、近代の残した遺産を放棄するべきだという主張とは、まったく別の問題だ。自由、人権、民主主義の出自と、その現在における価値とを同列に扱う必要はない。これは、現代のリベラリストの一般的な認識である。

私たちはもはや真理や合理性などというものを求めてはいない。形而上学などというものは存在しない。そのような発想自体が宗教的なものだ。 宗教を否定しているのではなく、それは宗教の領域だと示しているだけだ。では、何を根拠に自由を主張しているのか。多数性に依存するのか、歴史的な優越性を主張するのか。そうではない。そのような根拠を示す必要などない。自らの確信を表明するだけで十分なのだ。経済学者のシュンペーターは次のように言った。「自己の確信の妥当性が相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」と。

近代には光も影もある。美点も欠点もある。しかし、改善できる余地は多分にあるのではないだろうか。欠点だけを見て、美点を切り捨てることは得策とは言えまい。まして、誰がその後の政治的展望を示せただろうか。

時代の認識においても、目指すべきものについても、あるいは価値についても、到底理解し得ない深い溝がいくつもあるだろう。統一などという 幻想を抱くことは明らかに間違っている。対話や、文化的科学的な進歩が相互理解を促進すると考えるのも幻想だ。事実は、対立が必然であるということだけで はなかろうか。

問題は、いかに理性的に、暴力や戦争といった惨事を、あるいは差別や貧困といった苦痛を回避しながら、対立をうまく継続させるのかという事でしかないように思われる。これこそが、現代の現実的な目標であり課題なのだ。

私たちの内面性は近代以降急速に進歩した。イー・フー・トゥアンの研究によると、近代において、内面性を示す語彙は膨大に増え、それらが語 られる機会も増えた。日常的な残忍さは大きく減少した。さらには、人類という同胞意識が生まれたのも近代以降のことだ。地球の裏側で飢餓に苦しむ人の事を 思って胸が痛むなどという心情も極めて現代的な感覚である。戦争は科学技術によって破壊的になったが、心が蝕まれたと考えるべき根拠は少ない。これは一つの希望だと思う。

6.公と私

ある人はこう嘆く。あまりにも個人の自由が優先されてしまった結果、社会の秩序が崩れてしまったと。そして、公の規範を強く打ち出すことを主張する。もちろん、この場合の秩序というのは権力と権威の単純明快なヒエラルキーのことだろう。しかし、本当に個人は自由に溢れているのだろうか。

独立した自由な個人など、どこでお目にかかれるだろうか。<公>というものの圧力に服従するだけの存在。それが<私>の現実ではないの か。<公>が示す選択肢から、何かを選択するだけの存在。毎朝、電車で会社に行き、毎日同じような仕事をして家に帰る。それによって、何とか食料を確保す る。週に2回の休日も<公>が提供するエンターテイメントを有り難く消費するだけだ。情報も思索もメディアに 反応するだけのことであり、どう反応したところで、すべては<公>の想定内だ。私的な領域。そんなものが残されているだろうか。私的な空間は存在しても、 その空間はすべて<公>によって支配されている。フェリックス・ガタリの表現を借りれば「市場的な主観性への自己放棄」が生じているのだ。

別に放棄したくて放棄するわけではない。放棄せざる得ない状況があるということだ。古臭い表現を用いるなら「自己家畜化」だ。人間が人間自 らを家畜化すること。自由を失う代償は安全と生存だ。会社の中で偉いさんと称される人が辞令一枚で引越しだ。いったい何が偉いのか意味不明である。組織の 中のヒエラルキーなど、モチベーションを高める手段でしかない。そんなものに騙されて何十年も過ごす人が山のようにいる。可哀相な人がたくさんいる。

<私>はもはや、ひとつの記号になってしまった。そういう問題意識が<個人>や<精神>といった視点から鋭く指摘されている。公の復権を叫 ぶ人がいるだけではなく、私の復活を叫ぶ人たちがいる。ここでは<公>という概念を政府に限定してはいない。権力としての社会。それが現在の<公>の実相 ではあるまいか。

そもそも、公と私は対立を孕んではいるものの矛盾するものではなかった。より良い<私>を実現するためには、よりよい<公>が必要とな る。<公>のために<私>を犠牲にするのは、それが最終的にはより良い<私>になると判断するからである。問題はこの判断が分かれる点にあるのではないの か。

いや、そんな事ではない。<私>などは眼中に無く、美しき秩序である<公>こそが人類の価値なのだという、正反対の主張をする人たちもい る。あるいは、より良い<私>というものを、<公>への奉仕や貢献へと置き換えるかもしれない。それにしても、こういう人達は、どういう立場で発言をして いるおつもりなのか。<私的>な発言ではないと強弁するのだろうか。

それにしても厄介な状況だ。公を支える私なるものは存在しない。私に貢献すべき公は腐敗し混乱している。そんな認識が正しいならば、絶望の 他に何があるだろうか。もはや権力は自由自在だ。いや、権力間の闘争だけがある。権力の関心は公にも私にもない。関心があるとすれば、それは目的としてで はなく手段としてに過ぎない。

公や私という概念もまた権力に利用されようとしている。私たちは注意深く概念のすり替えに気づかなければならない。本来ならばそれはジャーナリズムやメディアの役割なのだが、彼らは信用に値しない。彼らも立派に権力の一部なのだから。

7.権力と暴力

権力とは何かという問いに対する答えは一つではない。スティーヴン・ルークスによれば、「Aという主体がBに何かをさせる一次元的な権力。 さらに、Aが複数化する二次元的な権力。そして、AがBを洗脳し、もはやBからはAの存在が認識できなくなる三次元的な権力」に分類される。私たちには権 力の存在が見えているのか。これは重要な問いかけである。

また、フーコーは、権力はあらゆる人間関係の中に権力は存在し、それは上からではなく下から発生するのだと言う。このような権力の性質についてここでは論じない。これは、国家といった大文字の権力ではなく小文字の権力だからだ。 ここで論じるのは大文字の権力だ。

権力の最大の特性は、それが正当な暴力を独占しているという点にある。これこそが近代国民国家の持つ権力の本質である。ここで言う暴力とは、もちろん警察力と軍事力のことだ。犯罪や、あるいは「悪」に対する暴力は、法律がこれを認める。したがって、権力が資本やメディアの中に認められるとしても、権力の根幹は国家でしかない、ということになる。

しかしながら、ネグリとハートによるならば、東西冷戦の終結以降、つまり1990年代になって国家の権力は弱体化し、替わって登場するのが、国家のネットワークとしての権力<帝国>なのだと言う。国家を超えた権力の登場。私たちはそういう時代にいるらしい。問題は国際法でも人道的見地でもなく、「グローバル秩序」になったのだと彼らは指摘する。そして、戦争は例外的状況ではなく日常的状況になったのだと。さらに、現代の戦争では強者と弱者の力関係は明白であり、強者の側は戦死者を出さないという目標すら立てているのだ。権力も、そして戦争も、新しい状況に突入している。

そもそも、権力と私たちはいかなる関係にあるのだろうか。正常な関係とは、服従と依存だろう。一定の服従の代わりに、安全や秩序、効率や豊 かさ、安心や平和を得ること。そうでなければ、私たちは権力を認めない。そのような状況では、権力に対する抵抗や反発、嫌悪、敵意が充満する一方で、権力 は恐怖を与える。問題は権力そのものではなく、権力のあり方なのではないのか。アナーキズムは理論的には理想かもしれないが、まったく現実的ではない。

権力を求めることは、自らの優位性を一時的なものから長期的なものへ、さらには世代を超えた永続的なものにしたいという意思を持つことだ。 幸いなことか、不幸なことかは別として、現代社会はそれを可能にする要素に満ち溢れている。何と言っても、富は蓄積し相続することが可能であるばかりか、 増殖させることが出来る。現代において富は権力そのものと言っても良い。権力は多くの欲求と欲望を満たす道具である。

私たちはもはや、権力なしでは、ろくな暮らしは出来ないと考えている。いや、実際に権力に依存しなくては生きられないような社会になってい る。そして、より良い社会とは、さらに全面的に権力に依存していれば良い社会なのだとすら考えている。それは恐らく幻想なのだが、それが幻想だと考える時 間が与えられることはない。そんな事を言い出すと、「難しいことを考えてないで、もっと楽しみましょうよ」と諭される。今や、欲望や快楽を追求することは 社会によって推奨されている。少なくとも、考えることよりは。

前にも書いた通り、権力の最大の特性は暴力を正当に行使できるという点にある。暴力。それに対してはいろいろな見方がある。暴力を人間存在 の本質と見る哲学者もいれば、暴力を非正常な状態と見る哲学者もいる。さらには、暴力を聖なるものとする哲学者もいる。しかし、私はこのような解釈の方法 自体に疑問を持つ。そもそも、この点について普遍的な人間の本質などというものが存在しうるだろうか、と考えるからだ。暴力を好む者もいれば、嫌う者もい る。単なる嗜好とか性質の問題ではないのだろうか。

暴力は、それが手段であるというだけではなく、それ自体が目的であるという場合もある。手段であるならば代替案が存在するだろうが、目的であるならば代替はない。では、暴力それ自体が目的になるとは、どういうことなのか。

権力や暴力に限らず、力というものには魔性が宿る。力が強大であればあるほど、その力には魔力が備わる。人はそこに、崇高なものや、神聖なものを見い出してしまう。それは容易に善悪を超える。理性はまず、この魔力と戦わなければならない。そして、私たちが権力というものに、すなわち暴力の構造に組み込まれた主体であることを自覚しなければいけない。

多くの人が権力の腐敗や不正を非難しながらも、権力に対する尊敬と恭順を示す。それが、本音である場合もあるし、打算である場合もあるだろう。権力は服従する者の狡さと卑しさを熟知している。魔力に流される時、魔力に呑みこまれた時、権力は暴力という牙を剥く。

8.善悪

処世が善か悪かを問うことに意味は無い。それは、善悪の問題ではなく必要なのだ。そのような設問は、その基準からして誤っている。 人間は社会性の動物なのだから、社会に適応しなくては生きて行けない。

さて、少しだけ哲学的になろう。

善悪とは何だろうか。

過去には、絶対的な善や悪を想定した哲学者が多数いたが、 そのようなものが存在しないことは、現代知識人の常識だ。 あるとするならば、<社会的悪><道徳的悪><経済的悪><宗教的悪>などの括弧つきの悪なのであって、<絶対的悪>ではない。

<絶対的悪>などというものは不可知であるということではなく、存在しないのだ。

子供は、「嘘をつくことは悪いことですよ」と教育される一方で、心理学者は嘘を覚えることで人は子供から大人になると言う。「嘘つきは泥棒 の始まり」という諺とともに「嘘も方便」という諺もある。嘘は<絶対的な悪>ではない。(絶対的な悪など存在しないのだから)ただ、嘘をつくと信用を失う 場合があるし、嘘つきだというレッテルを貼られると明らかに損だろう。また、それが裁判等での証言であれば、偽証という罪になる。逆に、上手い嘘は社会の 潤滑油にもなるし、幾多の利益の源泉ともなるだろう。

では、人を殺すことは悪いことだろうか。これも<絶対的悪>ではない。(絶対的な悪など存在しないのだから)ただ、人を殺すことは、<社会 的な悪>として裁きを受ける可能性が高い。私たちは社会で共生する動物として、そのような危険分子を排除するように努めるし、裁きを加える。死刑論、死刑 廃止論には言及するまい。議論がそれるからだ。これには死刑そのものの<倫理的な善悪>という議論だけではなく、いろいろな観点がからんでくる。

個人的な殺人は悪だが戦争は異なるという議論もある。それは、超法規的な世界、勝てばすべては正義になるという思想である。これも<絶対的な悪>ではない。(絶対的な悪など存在しないのだから)ただ、現代社会は、戦争は回避すべきであるという考え方が主流である。それは、もっぱら<倫理的視座>に基づくものであり、人権や人道の領域に属する。

悪名高い「優生思想」(優れた遺伝子が残り、劣った遺伝子は淘汰されるべきだという思想)にも、隠れた支持者は多い。私はもちろん、「優生思想」には反対なのだが、その理由は弱者の権利によるのではなく、何が優で何が劣かは人間に判断できるような問題ではないし、神がいたとしても、それは判 断できないと考えるからだ。

自分に危害を加えるかもしれない野獣が近くにいたとして、貴方は持っている銃の引き金を引かないだろうか。動物愛護の精神から、引き金を引 くことを躊躇うだろうか。もしも、それが野獣ではなく、危険な人間だったならばどうだろうか。生きるということは、本質的に<戦い>という側面を持つので ある。

さて、いろいろとある悪の中で、一番の悪は何だろうか。

逆説的だが、それは行過ぎた善である。

<社会的悪>を細部まで示そうとすると、どうなるだろうか?

グレーゾーンの白黒を決めると、どうなるだろうか?

殺人が犯罪であることに反対の人は極めて少ない。では、すべての隣人を愛せよ、となるとどうだろうか? 日常生活で、嘘をつくことが犯罪になったらどうだろうか? 愛国心(そんなものは定義によるが)の無いことが犯罪になるとしたらどうだろうか? それは、人間的自由、人間的自然、あるいは<生>の否定である。

浅薄に相対論を批判するのではなく、浅薄な相対論を批判するべきなのだ。私たちは、<絶対的な善悪>など存在しないことを知りながら<善悪>を問う。それは、矛盾ではない。

9.対立の射程

民主主義とは最終的には数の論理だ。より大きな合意を得るためには各論など語らない方が良いことは明白だろう。究極の目標である平和や自由や愛や平等という幻想を与えることで、より多くの共感を獲得し連帯を誇示する。改革や国家が キーワードになる場合もあるだろう。そして皮肉なことに、平和と自由のために、あるいは人道的見地から、空爆が繰り返される。近代の光と影にどう向き合う のか。その認識は差異に満ちている。差異はそのまま対立と置き換えても良い。認識の対立。価値観の対立。立場の対立。感情的な対立。世界とは対立に他なら ない。

愛という魔法の語彙にしても、その形は対立に溢れている。子供を谷底に突き落とす愛もある。愛の鞭という暴力の肯定もある。恋愛。家族愛。郷土愛。母校愛。愛社精神。祖国への愛。人類愛。愛という文字は共通しているものの、その性質は大きく異なる。ある人は国家への愛と人類愛は対立する愛であると語り、ある人は国家への愛が人類愛に通じると説く。私はと言えば人類愛にすら否定的だ。恋愛や家族愛は理解できる。その対象は自らが知っている者だ。しかし、同胞となるとどうだろうか。同じ人種、同じ民族、あるいは同じ人類というだけで、個の姿は想像であり虚像だからだ。一般的な愛(LOVE)は動物、生命全般、あるいは宇宙 にまで延長可能な性質を持つ。それは悪いことではないのかもしれないが。

さてしかし、人類愛を行動に移すとなると、傲慢と怠慢が溢れ出す。先進国の自由と民主主義そして資本主義を素晴らしいと考えるヒューマニストは、これを封建主義の途上国に普及することが善や正義だと錯覚する。そして、開発の美名のもとに貧困を生み、人道的見地から部隊を派遣する。それらは、愛という言葉で許されるのだろうか。これらは優位を自覚する者の驕りに過ぎないのではないのか。私は観念としての愛を否定する。そんな愛は、愛される側に言わせれば迷惑に違いない。

崇高な目標を共有していても、具体的な方策はなにひとつ一致しない。あるのは、双方の妥協という合意か、力関係による合意、あるいは決裂だけだ。とりあえずの連帯に何が期待できるだろうか。それよりも対立を明確にし、対立を前提として、その中から何かを見い出そうとするアプローチの方が遙かに知的であり有益なように思われる。完全なる一致は目標であるどころか全体主義的な、あるいは民主主義的な悪弊である。目指すべきは対立点を明確にし、それを認め合うことだ。大衆を一括りに認識することなど完全なる誤謬である。心理学用語ではこれを「過度の一般化」という。対立の哲学は、統一や連帯を求めたりはしない。対立を整理し、現実的な解答を得ること。対立を決してネガティブに捉えないこと。むしろ、それが明確になることに喜びを感じること。さらに、対立を感情的な対立に転化しないこと。これが対立の哲学の基本的な立ち位置だ。

対立の哲学がまず第一に要求することは、あらゆる他者に対する敬意である。先進国のヒューマニストに途上国の飢餓に苦しむ人々への敬意があ るだろうか。僭越な言い方かもしれないが、そこにあるのは憐れみと優越感ではないのか。敬意とは尊重であって援助ではない。ただ、現実の局面においては敬 意の原則が難しくなる場合もあるだろう。嫌悪や敵意は望ましくないと知りながらもやってくる。ただ、不思議なことに、敬意は嫌悪とも共存できる。相互が敬 意を持った時、はじめて対立が成立する。言い換えれば、敬意の無い対立は対立と呼ぶに値しないのであり、対立以前なのだ。そのような対立を「対立前対立」 とでも呼ぶことにしよう。

なぜ敬意なのか。それは、対立という知的な営みを行おうとする者にとって、必然的に備わる態度なのだと私は思う。すべての人は、生きていく 中で常に最善と思われる行動を選択してきたはずだ。それが犯罪であれ、不合理なことであったとしても、その選択は真実なのである。そのような「生」に対し て敬意を持てないという理性は未熟に過ぎる。

対立の哲学が目指すものは、対立との共生と言っても良い。対立から逃げないこと。対立を隠蔽しないこと。対立を受容すること。これが、対立の哲学の原点だ。

ここで提起される最初の問題は、対立の射程である。「相互に敬意を持たない対立」=「対立前対立」という状態を対立の哲学は射程に収められ るのか。それは、簡単に言えば野蛮な状態だ。この「野蛮な対立」を「知的な対立」という土俵に引きずり込めないのであれば、「対立の哲学」は生きた哲学と 言えない。当然ではあるが、対立の哲学は、この野蛮な状態を射程に入れて行われる。

10.事例ー1 いじめ

「とくに理由なんて無いですよ。何となく気にいらないってとこかな。」いじめをしたA君は教師にそう言った。 理由はない。もちろん、理由を分析することはできる。想像することもできる。いじめを受けたB君は、A君に何もしていない。 B君は言った。「A君に対する感情は、恐怖と不安、それだけです。A君がいるような学校には行きません。」

教師はA君に言った。「いじめは悪いことです。もう、いじめてはいけませんよ。」

理由は無かった。それは嘘である。A君は理由を理解していないし、それを理解しようとしていないだけのことだ。B君は帰国子女でクラスの中 でも異質な存在だった。臆することなく反対意見を述べる子供だった。A君はそういうB君を自分とは異なる種類の存在として、ある種の脅威と不快を感じてい たのだ。A君は、その不快感が何であるのかを言葉に出来なかった。しかし、何らかの手段でそれを表現したいとする情動はあった。その情動は、極めて強いも のだった。そして、その表現の形式が「いじめ」となったのだ。

それにしても、この教師の対応は稚拙に過ぎる。いじめは いけない。暴力はいけない。その程度の認識はA君にもあったはずだ。問題は、それがなぜいけないのか、という点でもない。そうではなく、A君が情動を、そ の情動の理由を、理性=言語で理解できなかった、しようとしなかったという点にこそある。教師の役割は、そのような理性の発達を促すことなのであり、何が 禁止されていて、何が禁止されていないかという知識を教えるだけでは不十分なのだ。

また、教師はA君の情動と心理を理解する必要がある。異質なものに対して寛容な態度がとれるようになるには、どうすれば良いのか。それを教えられなかった教師にも責任があるかもしれない。

しかし、一方ではそのような理性よりも情動を優先させようという議論もある。むしろ、いじめら れる側に問題があるのであり、協調性を育むべきだと主張するのだ。もちろん、これは暴論である。近代文明は、コギト(考える私)を前提にしているのであっ て、コギトなきエゴ(自我)という存在は想定していない。これは、真理とか絶対性の問題ではなく、広汎な合意であり、約束事なのだ。この約束事を否定する ということは、文明の放棄であり、議論の対象とすべき事柄ではない。そのような議論をする人は、反文明主義者であり、文明の敵と言っても言い過ぎではな い。余談だが、最近の日本の書店には、この文明の敵と呼べる本が山積みになっている。実に嘆かわしい現象だ。

どこにでもあるような事例だが、ここから引き出される論点は極めて多い。教師の役割とは何なのか。異文化をどこまで許容すべきなのか。クラスのアイデンティティをどこに求めるのか、あるいは求めない方が良いのか。どこからがいじめで、どこまでがいじめではないのかなど、それだけで一冊の本にできるくらいだ。

また、いじめは通常、多数で徒党を組んで一人ないし少数の者に対して行われる。では、いじめと、1対1の喧嘩の間に、どのような質的な差異があるのだろうか。いじめは良くないが、喧嘩なら良いと言えるのだろうか。

しかし、この事例の場合、A君とB君の間に喧嘩はなかった。あったのは、いじめだ けである。喧嘩は、双方にその意思が存在してはじめて成立するものだが、B君には喧嘩をする意思などなかったのだ。一方的な暴力。このような非対称な対 立。いや非対称というよりも完全に一方的な対立というものも、この世界には存在する。では、B君はどうすれば良いのだろう。

この場合は、学校を変わることで障害を回避できるかもしれない。あるいは、現実の環境(クラスの同質性)に適応するべく協調的な態度や行動を演じることも出来るだろう。もしかすると、いじめの問題についてクラスで徹底的に議論することが望ましいのかもしれない。

情動による一方的な対立。これはなにも、未熟な子供の世界に留まらない。未熟な大人の社会にも存在する。しかし、それを未熟だと非難し、軽 蔑するだけでは対立の構造は変わらない。優位に立つには、対立の構造を変化させなければならない。対立の構造を変化させるとは、どういうことなのか。これ については、いくつかの事例を検討した後で整理することにしよう。

11.事例ー2 対立未満

会社に就職して10年以上が過ぎた。30を過ぎたが、仕事に情熱を傾けるわけでもなく、特に趣味があるわけでもない。結婚もしていないし、交際している女性もいない。両親とは疎遠であり、学生時代から一人暮らしを続けている。それに不満があるわけではない。ただ漠然と、この人間関係の希薄さは異常なのではないのかと感じている。

会社に友達はいない。もちろん挨拶はするし、普通に会話はする。飲みに行くこともある。ただ、それらは儀礼的な形なのであって、それ以上で も以下でもない。そこには人間的な興味や関心はまったくない。会社の中に私的な人間関係を持ち込むことは良くないことだと考えているのだから、こうなるの は当然だろう。特に競争心もないし(競争心があるように演じてはいるが)、仲間意識もない(仲間意識があるように演じてはいるが)。

内的な心情を伴なう人間関係を求める気持ちが無いわけではない。しかし、どうすればそのような関係を築けるのかも分からないし、煩わしいこ とに巻き込まれたくないという気持ちもある。だいたい、人間として面白い人、興味の持てる人に出会わないのだ。それは、感受性の問題なのかもしれないし、 そもそも自分自身が面白い人間ではないと思っている。

対立は関係を前提としている。このように、関係そのものが存在しないなら、対立などあり得ないのではないだろうか。それは、対立が無いということで望ましい事なのだろうか。対立未満。これが、事例-2である。

世界的な傾向として、社会学では人間関係の希薄化が問題とされることが増えている。都市という現象の中で、取り残されてしまう人たちは少な くない。また、常に友人達といるような人でさえ、内的な意味での人間関係が存在していないという場合もあるだろう。より掘り起こせば、<内的な意味での人 間関係>がなぜ必要なのか、から問うこともできる。

この事を考える手順として、対立の反対側にある、人と人との良好な感情というものを考えてみたい。それはおそらく、尊敬や共感であり、友愛 や慈愛である。これらは純粋に、人と人、個人と個人の間で生まれ得る感情である。対立の反対物として、「仲間意識」をあげても良いのだが、これは小か大か はともかく、組織あるいは共同体を介在した感情なので、ここでは除外する。組織における対立は、次節以降で検討する予定だ。対立の哲学を標榜しながら、対 立の反対物を「良き物」と無条件に決め付けることに少し抵抗も感じるが、暫定的にそれらを「良き物」と仮定して話を続けよう。

尊敬とは、特定の価値観に照らしての評価であり、憧れや羨望を伴なう感情である。共感もまた、特定の価値観を共有できたことの喜びから生ま れる。ここで言う価値観は、言語的=ロゴス的なものだけを指すのではない。芸術的なものでも良いし、言葉では表現できないような価値観もあるだろう。むし ろ、ある種の「世界」と言った方がわかりやすいだろうか。そこに絆を見い出すのだ。

これに対し、友愛や慈愛という感情は、「発見する」という性質のものではない。それは、いつのまにか「芽生え」そして「育まれる」。例えが 悪いかもしれないが、人が犬を可愛がるときに価値観=世界を問うだろうか。すべての生命は等しく愛されるべきだ、などと言いたいのではない。可愛い犬もい れば、可愛くない犬も、危険な犬もいる。そこで、何を愛し、何を愛さないか、というのは人智を超えた問題である。脳科学がどれほど進歩しても、この謎が解 明できるとは到底思えないということだ。ましてや、「何を愛するべきだ」などという言説は、愛についての無思慮を自白したことにしかならない。

人と人との<内的な意味での人間関係>は、喜びの源泉であるとともに、対立の源泉でもある。そんな二分法的な言い方ではなく、ただ「混沌」 の源泉であると言った方が適切だろうか。言い換えれば、喜びも、悲しみも、怒りも、すべてはこの「混沌」の中にしかない。これは、生きるということの本質 的な部分だと言えないだろうか。であるならば、人間関係の不在は、人と人の対立という視点からは対立未満だが、その形は、<生>そのものと対立している姿 と言えよう。

12.事例ー3 アイデンティティ

些細な出来事だった。A氏は30代の善良な会社員。上司のB部長とも関係は良好だった。しかし、その関係はある一言から激変した。B部長はA氏の机の上に飾られたガンダムのフィギュアを見ながら言った。「いい年して、こんなもの置くなよ」

B部長には何の悪意もなかった。しかし、A氏にとってはこの一言が許せなかった。「こんなもの。」その一言は自分自身に対する侮辱以上に許 しがたい一言だった。これは、おもちゃではない。精神的な支柱なのだ。A氏は怒りが込み上げてくるのを覚えた。以降、A氏はB部長に敵対する言動をとるよ うになる。B部長は関係の変化は認識したものの、理由には気がついていない。

A氏は仕事も不真面目になり、未だにB部長の顔を見ると不快になる。当然、机の上にはまだ、ガンダムのフィギュアが置かれている。

さて、この事例はガンダムについて論じるためのもものではない。A氏にとってのガンダムとは、ある種の宗教のようなものだったのだろうか。 であれば、そのような聖なるものを会社の持ち込むことは不適切かもしれない。仏像を会社のデスクの上に飾る仏教徒がいるだろうか。多くの企業では、職場で の政治的、宗教的活動を禁止している。もっとも、ガンダムのフィギュアを置くことが宗教活動だとするような裁判官はいないだろうが。

それとも、宗教ではなく、スターのような精神的支柱だったのだろうか。崇拝すること。それを非難したり、否定したりすることは、いわゆる思想・信条の自由なのであり、B部長の発言が、自由を侵すものだったと言えるのかもしれない。

私たちは、誰が、いかに審判すべきなのか、という問いかけに答える段階ではない。審判の必要な状況が、なぜ発生するのかを明らかにしている 段階だからだ。ただ、審判は必要なのであり、その審判は神ではなく、人のみが行えるものであることだけは明らかだ。この事例の場合、審判の必要はないし、 審判が行われる可能性もない。対立というものは、大多数が、この審判なき対立に属するのであろう。それどころか、この対立は見えない対立であり、隠された 対立でもある。

さて、侮辱されたと感じた時、屈辱を味わう時、その理由を問う時、一番最初に出てくる言葉が、「アイデンティティを傷つけられた」ということではなかろうか。損害を受けた場合は、侮辱ではなく被害である。

アイデンティティは多様である。そして、それは他者からは見えない場合も少なくない。親族や出身地、学校、会社、クラブ、サークル、派閥、趣味、嗜好、宗教、思想、政党、地位、キャリア、世代、民族、国家歴史観などなど、あらゆる社会的、文化的諸相の内にアイデンティティを置くことが考えられる。ある個人のアイデンティティを見れば、そこには強弱はもちろん、自覚的か否かという区分もあるし、屈折した形も含む複雑な姿になることだろう。

アイデンティティは社会的、文化的な次元における自己の拡張でもある。ただの私ではなく、より大きなもの、深い絆で結ばれた集団の一員であ るということに対する責任と自覚、あるいは誇り。それは否定すべき性質のものではなく、自然で健全なものと言えるかもしれない。もっとも、その集団の性質 にもよるだろうが。

例えば、野球をしている時に、ピッチャーが憧れの選手をバッターボックスに迎えた。ピッチャーは自分のチームなどどうでも良くなり、ホーム ランを打ってくださいと真ん中高めにストレートを投げた。この行為は非難されるべきだろう。それを告白したならば、チームを追われても文句は言えないし、 彼を受け入れるチームは現れないかもしれない。ゲームというものは、お互いのアイデンティティを前提として成立しているのであって、それが文明的なもので あれば、そこにはお互いに敬意があるべきなのだ。ただ現実には、気持ちの上では相手を殺す気持ちでやれとか、敵意や憎悪を掻き立てるような指導をする人も 多い。現実には法を犯していないのだから、それも思想・信条の自由だと言うのだろうか。それは確かに自由かもしれないが、誉められたものではないと思うの は私だけではあるまい。

また、出身大学に強いアイデンティティを持つ人も少なくない。有名一流大学卒 だと、口にはしないものの、それが誇りであり、自慢であり、支えであるという人は多い。しかし、東大を出たというだけで、学術的に、あるいは社会的に何の 貢献もしていない人を、どう評価して良いのか私にはわからない。少なくとも、その誇りに見合う成果を見せて欲しいのだが、そのような感覚は無いようだ。大学名によって自らを誇大化すること。それは、心理的なものでしかないのだが、世間は学歴をありがたがる。東大卒というだけで、是非うちの役員に、名前だけで結構ですので、という企業はいくらでもある。某大学教授は、大学とは学歴を販売すると端的に書いておられたが、その通りだ。東大卒は東大卒というお金では買えないブランドを持っている。そのブランドに憧れる人は多い。それだけのことだ。

アイデンティティは両刃である。それは集団を活性化し発展させる原動力となる一方で、過熱すると大きな火種になる。また、個人の中にあって も、適度なアイデンティティは充実感や満足感をもたらすが、行き過ぎると個人というものが消滅し、組織において機能するだけの機械へと堕落する。もっと も、それは堕落ではなく正しい生き方だ、という人もいるのではあるが。

自らのアイデンティティを点検するとともに、他者のアイデンティティについて想像力を働かせること。それは生きる上で、また人間と社会についての理解を深める上で有益であるに違いない。

13.事例ー4 対立と利害

人事部長であるA氏の態度に、課長のB氏は苛立っていた。

人事部では、企業の競争力を高めるため、時代の流れにそって、年功序列賃金から成果主義的賃金への移行を命じられ、その企画を詰めていた。 基本的な考え方においても、具体的な道筋においても、意見は一致していた。もともと人事部は特殊なセクションで、会社生活のすべてを人事畑で過ごすことも あり、特に結束の強い部署だった。

しかし、経営会議に資料を出す段階になって、部長の態度が変わった。この案では40歳以上の社員の反発が大きすぎるから、提案を抜本的に見直すべきだと言いはじめたのだ。

B課長をはじめ、部下は動揺した。経営会議は1ケ月後に迫っている。その期間で新しい案を作成し、資料を纏めることなど事実上不可能だ。し かも、どこをどう変更すれば、部長の承認が得られるのかも曖昧だ。さらに、このプロジェクトの事実上の責任者はB課長である。経営上の重要プロジェクトが 遅れるようでは、処遇の面で責任を問われることになるだろう。少なくとも、確実に地方に飛ばされる。そんな想像が、B課長の脳裏をよぎった。

A部長の内心は、別のところにあった。

50歳を過ぎて、最終段階は平の取締役程度という未来が見えていた。そして、この制度になれば、自分の生涯賃金が2000万円程度減るという試算が出来たのだ。確かに、賃金制度の変更は、会社にとっては必要だろう。しかし、A部長自身にとっては何のメリットもないどころか、益するところがない。そして、このプロジェクトが頓挫した時の責任は、B課長にとってもらおうとも考えていた。それが、A部長の利害に基づく判断だった。

目標も価値観も、そこに到達するための手段も共有している。さらに、人間関係も円滑である。そんな状況においても、それぞれに立場が異なる ということは知っておく必要がある。「無私」になれる人は極めて少ないし、「無私」というのが逆に、その周りにとっては迷惑であったりする。

立場の違いから利害関係が生じるということは良くある。公平であるべきだと思っていても、獲得した権益を自ら手放そうという潔癖な人は少ない。どこまで行っても、そこには「私」がある。

それを利己主義として批判することはたやすい。しかし、利己主義を擁護することも、たやすい。議論は、どの程度までなら、利己主義が許され るのかという綱引きになる。利己主義者は、法と文化が認める範囲内での利己主義の徹底を一つの理想とする。最小限の制約をどこにするかを論点にしようとす る。一方で反利己主義で論陣を張れば、どの範囲でなら利己主義が認められるかという側に制限を設けようとする。意味の無い議論だ。大多数の問題は、その両 極の中間にあるからだ。

立場という言葉から、強い立場/弱い立場、という関係性も想起される。今回の事例で言うならば、A部長は、B課長よりも強い立場にあった。 そして、A部長はその強さ(力関係)を利用した。立場に強い弱いがあること自体が問題だ、などという非生産的な議論をするつもりはない。立場には常に強 い、弱いがある。それが著しい違いか、硬直的なものか、という見方があるだけだ。この事例でも、一見すると弱い立場にあるB課長は反撃したのかもしれない し、その結果、勝利したかもしれない。立場の違いは、完全な支配/服従という関係とは性質が異なる。フーコーも指摘したように、ある程度の自由が与えられるからこそ、そこに権力(power)が、すなわち立場の違いという関係が生じるのであって、完全に支配(domination)したのでは、立場という見方すら消滅する。文字通り、立場が無くなるということだ。

現代社会の中で、私たちは複数の世界の複数の立場に身を置いて生活している。理想を語り主張することに全精力を傾注する人もいれば、利己主 義の追及に全精力を傾注する人もいる。私はと言えば、どちらも考えて行動している。そして、どうバランスを取れば良いのかという事に悩まされる。しかし、 それ以外に選択肢があるだろうか。

私は、現実の自分を無視したような夢想家にも、他者を理解できない利己主義者にも、共感することが出来ない。すべての人々は、世界という ゲームの中でのプレイヤーだ。それは、良い悪いではなく現実なのであって、立場は自然についてくるし、利害も自然に生じてくる。それを拒否したり、否定し たりすることは賢明とは言えない。それよりも、私たち一人一人がプレイヤーであることを、より強く自覚することが重要なのではなかろうか。

14.寛容の圧力

個人における対立は、多くの場合、感情的な対立へと発展する。それがいかに専門的な分野における高度な対立であっても、それをあくまで学問上のことと分離してとらえ、プライベートではあくまで親友だ、というような人格者は極めてまれなのだ。人格を売りにしている宗教家であれ、悟りを開いたと自称する宗教家であれ、宗教上の対立が感情の対立に至るというのは通例だ。しかし、このような対立はむしろ、恵まれた部類に属する対立である。というのも、そこには「対立の場」が確実に存在するのだから。

感情的な対立は、「許せない」という言葉に集約できる。それは、過去の事実に由来するものであったり、思想上の問題であったり、価値観や文 化の差であったりする。あるいは、純粋に生理的な感覚や感情、いわば「面白く無い」という場合もあるだろう。また、相手の存在自体が生命や財産に対する脅 威であるような場合も、許せない、ということになる。それは合理的な場合も、非合理的な場合もあるが、日常の中で対立の由来を吟味することは、あまりな い。なぜならば、許せないという一時の感情は、現実の中では具体的な対立に至る前に緩和され、消滅あるいは幽閉される運命にあるからだ。

実社会の中で、個人的な対立を表に出すことを、コストとベネフィットから考えた場合、コストが大きすぎる場合がほとんどである。裁判という 合法的な手段で大金を得られるような場合を除いては、対立のコストに見合うだけのベネフィットは得られない。また、対立は個人にとって以上に、社会や組織 のとっての大きなコストとなる。協調性が強く求められ、寛容が奨励されるのは、それが美徳だからではなく、極めて打算的な要請と言えるだろう。教育の大き な目的の一つは、この個人的な対立を、いかに円満に社交的にこなせるようにするかという事でもある。

特に、和を重んじる日本社会では過剰な協調性が求められ、対立の成熟を阻んでいる。抑圧された対立のエネルギーが、いじめという「機会」を得て、代理の対象に向かって噴出する。そこには、いじめへの参加という協調性までが顔を出すのである。日本に特有の「いじめ」という病理は、この過剰な協調性の産物だと思う。言い換えると、「健全な対立の不在」が問題なのである。

まず、許せない、という心理をネガティブなものとして否定したり、無視したりすることが不健全であるということを理解する必要がある。会社 の同僚と飲みに行って、上司の悪口に花を咲かせることを、みっともない、と馬鹿にしてはいけない。どのような形であれ、この心情を表現すること、自覚する ことは大切なことだ。我慢という抑圧が心を歪め、人を純粋な感情から阻害して行く。この怖ろしさに気がつくべきだろう。

もっとも、酒を飲んで同僚と愚痴を言い合うだけでは、対立にはならない。問題は、それですませて良い対立なのか、より本格的に対立しなけれ ばいけない問題なのか、という点を見極めることにある。すべてを、短期的かつ個人的なコスト/ベネフィットで判断して対立を回避するという姿勢は、長いも のにはまかれろ、勝ち馬に乗れ、ということだ。それこそが信条という人もいるだろうし、ある程度はそれもやむを得ないと考える人もいるだろう。しかし、そ れでもなお、譲れない事がある、という強い思いを持つ人は少なくない。その背景には、未来は私たちの意思で変更可能であるという信念がある。より良い世界 を求める意思がある。そのような未来に対する責任を自覚する人たちが、その責任を自覚しない人たちと対立することは当然のことだ。

対立を表に出すということは、非対称であった対立を対称化することでもある。そのためには、より良い対立の場が必要なのであり、より良い対立の技法が必要なのだ。暴力や陰謀や陰口ではなく、正面から言論で対立することが必要なのだ。

現代は開かれた世界であり、またフラット化した世界である。インターネットによって、誰でも情報や言説を発信できる。それはまた、対立の基盤、対立のインフラとも成りえるだろうし、また積極的に、そう活用するべきでもあるだろう。

対立の由来を吟味し、対立をネガティブなものとして否定することなく、問題によっては利害を超えて対立する意思を持つこと。また、より良い 対立の場を作ること。そして、対立の経験を積むこと。過剰な協調性を排除すること。寛容の圧力に安易に屈しないこと。それが未来への責任であり、希望であ り、人間らしさなのだ。

日常の中でも、うまく対立することは、対立を我慢することよりも、はるかに勝っている。うまく対立するとは、対立の真相を、許せない理由 を、うまく伝えることだ。言うのは簡単だ。力関係で劣るような場合には、そんな事をしたら立場が危うくなり危険であったりする。そのような場合には対立を 表面化させ、かつ、自らが有利になるような戦略を描かなくてはいけない。必然的に第三者を巻き込むことになる。こうして、個人的な対立は、単に個人と個人 の対立ではなくなって行く。

15.無関心

近代以降、人間は道徳的に大きく進化したという説がある。それは、人種や文化を越えて、別の地域や、地球の裏側にいる人達の非合理的な苦痛 にすら、許しがたいとする感情を持つようになったからだと言う。本当はそのような心情を持たない人も、それを公言することはしない。それは、恥ずかしいこ とであり、間違ったことであり、反知性的、反現代的なものと考えられているからだ。飢餓や反人道的な行為と、それによる苦痛を、同じ人間として認めること ができないというのは、現代人に共通する感覚となった。同じ人間としての関心の拡大、共感の拡大を根拠として、道徳的な進化という主張がなされるのであ る。

あるいは、成功哲学の多くが、人に対する誠実な関心を持つことを要請する。逆説的に言えば、人に対して関心を持てない人は成功しないということだ。ここでも、関心を持つことは奨励され、無関心は非難される。

注意すべきは、この二つの関心が異質であるという点だ。「道徳的な進化」とされる人類全体への関心は、つきつめると、道徳的であるべき社会 に対する関心であって、人に対する関心ではない。そこに、個人的な関心があったとしても、それは二義的なものでしかない。別に地球の裏側でなくても良い。 自分の属する地域社会であっても同じである。関心を寄せるのは社会のあり方であり、実際の個人に対して関心を寄せてはいないことが多いのである。

私たちの関心は大きく広がると同時に、その視線は個人から社会へと移行している。社会に対する関心が増す一方で、現実の世界での人間に対す る関心は希薄化している。社会は確実に細分化されている。ライフスタイル、趣味嗜好、専門領域は多様化し、人間関係も複数の特殊な集団内でのみ築かれて行 く。隣近所であっても、一つではなく複数のグループに分かれて行く。それが良いとか悪いということではない。社会に対する関心と個人に対する関心を切り離 し、使い分けている現代人の姿を把握しておくことが、個人と組織、あるいは個人と社会における対立の違いを考えるうえで必要になるのだ。

労働運動で服役したインテリ学生が、刑務所で労働者と同室になりながら、会話すらしなかったというエピソードがある。この学生が共鳴したの は思想であって、労働者では無かったのだ。同じように、人権には関心が高いが、人間そのものには関心が薄いという人も少なくない。というよりも、それが現 代の傾向のようにすら思える。もしかしたら、私も例外ではないのかもしれない。

あなたには、身近な存在で日常的に会話をしているものの、個人的にはまったく関心を持っていない人がいないだろうか。そして、それはなぜ か。共感の不在だろうか。利害の不在だろうか。それとも対立だろうか。対立は強い関心を生む場合もあれば、無関心を生む場合もある。そして、多くの場合、 無関心には危険が潜んでいる。成功哲学を支持するわけでも、成功を称賛するわけでもないはが、どのような場合でも、無関心に陥ることなく一定の関心を持つ ことは必要である。強い関心を持つ必要はない。必要最小限の関心で良いだろう。相手を理解できる程度に。